もし、小学校の授業で「お金とは何か」という授業があったなら、お金の起源は諸説あるとしても、「物々交換から発展して、お金が生み出された」という説明から入るのではないでしょうか。今、僕が猪を持っていたとしましょう。いつも山の動物ばかり食べている僕は、たまには海の幸も食べたいと考えた末に、漁師をしているA君にお願いをして、おいしい魚を食べたいと言った場合、猪に対し、鯛とイカに交換するのはどうかと提案があルトします。それが成立すれば、問題ないのですが、持ち運びに困るような大きなモノと交換する場合や、交換が成立しないような他のモノが欲しい場合などは、物々交換に変わって、今流通しているお金の原型が生まれたと言われています。最初は、石や貝殻などがお金の役割を果たし、「道具」として流通するようになりました。これにより、モノの価値が確立されていき、基準ができて、貯めておくことも可能となり、社会の動きは活発化することになりました。この結果、人々は以下のことを理解します。

①「モノと交換できる」

②「価値基準がわかる」

③「貯めることができる」

つまり、お金は「道具」であって、そこに善悪は介在しません。しかし、現代社会でも、お金を介して様々な問題が起きていますが、これはお金に問題があるのではなく、お金を扱う人間に問題があるのではと言わざるを得ません。

「1,000札」は、単なる紙切れのはずですが、そこには誰もが認める「1,000円」の価値が内在され、どこでも流通しています。この紙切れがなぜこうまで信用されているのでしょうか。それは、日本銀行が保証していることに尽きます。ですから、勝手に紙切れを用意し、金額を書いてモノを買おうとしても信用がないので、モノを買うことは出来ないわけです。でも、この信用は全世界で共通の概念があるとしても、価値は日本国内で使用する場合に限られ、特に海外で使用する場合は、日本円とアメリカドルの換算比率「為替レート」に沿って、お金の価値は変動します。お札にも値段がついているイメージですかね。このレートは、国の力を示すものと言われていますが、日々刻々と変わります。最近では、仮想通貨という、国の保証がない通過も出てきています。既に電子マネーという姿形が見えないお金も日常生活の中に溶け込んでいます。今後もお金の形態は変化していくことが予想されますが、お金が僕たちの生活の中で「道具」としての役割を担うことは変わらないと思います。

お金は世界を駆け巡ります。絶えず、動き留まることを知りません。銀行に預金していれば、銀行はお金を溜め込み、滞留させているのではないかという疑問が出てくるかも知れませんが、銀行は預かったお金で資金運用をして、やはりお金は全世界に駆け巡り、銀行はお金を回しているわけです。人の体で言うと、血液のような循環した流れの作用があると思います。血液の流れが悪くなれば、健康ではなくなります。同じことがお金についても言えます。お金の流れが止まれば社会生活にとって影響が出てきます。今の日本ではお金がちゃんと動いているでしょうか。コロナ禍で政府はお金を国民に配りました。そのお金を受け取った国民の多くはタンス預金にしてしまえば、お金の動きが止まり、社会は停滞する可能性が出てきます。個人が所有するお金を全部使いなさいと言っているわけではありません。上手く循環させるよう、回していけば良いと思うんです。お金は個人や社会にとって必要不可欠なものです。生活していく上で、必要不可欠なお金、モノを買いたい、起業したいと願望を満たす時に必要となるお金、貯金があれば、困った時に必要となるお金、投資をして人や社会に役立つ必要なお金、一見お金に縛られた世界で僕たちは生きていると思われがちですが、モノや幸せの基準を自分の尺度で見極めていく必要があると思います。文部科学省が目指している教育方針に文理融合と言う表現があります。社会に出れば、文系だから数字には無頓着で良いと言うことは言えないわけです。つまり、数字で示されたエビデンスを見ていく癖をつけていけば、社会生活を営む上での判断基準も明確になっていくのではないでしょうか。でも、価格って良く見ていかないと難しいですね。ちょっと、考えていきたいと思います。

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