僕が、就職活動をした時代は、バブル経済がとっくに崩壊し、大学の授業では先生は、「君たちが4年生になり、就職活動をする頃には、きっと経済も回復しているから心配ない」と今思えば無責任な話しをよくもまあ言っているものでした。大量採用の金融機関が軒並み採用を抑制した結果、優秀な学生とパイを奪うような就職戦線を迎えました。第一志望だった電鉄会社で街開発や関連会社に出向して色々な事業を経験したい想いも虚しく、どこもかしこも即座にお払い箱でした。学生時代にサービス業でアルバイトをしていた関係で、そういう業界については分かったつもりになり、志望順位からは下げて考えていたのですが、皮肉にも電鉄系のそういう業態に内定を得るのがやっとで、あらゆる志望業界からNO!を突きつけられました。今と違って、留年して時間を稼ぐことや何より経済的に余裕もないため、そんな発想もなく、どこでも良いから会社に入り込むためにゲリラ戦法で面接に臨み続けました。結局、就職戦線の後半戦の秋口に、諦めの悪い僕はもう一度、就職活動を再開し、事務系の会社を目指しました。

神戸出身の僕は、海と船のある環境で育ったこともあり、また、海外での駐在を夢見ていたこともあり、鉄道会社と海運会社にこれまでチャレンジするも全く歯が立ちませんでしたが、奇跡的に面接まで進み、結果として海運会社に就職することになりました。ここから、現在に至るまで僕のサラリーマンとしての苦しい時代の幕開けとなります。

サラリーマンの厳しさやしんどさの主なものに、ノルマを課せられることや終わりのない残業、安い給料、もっと深刻な面では人間関係などが挙げられると思います。僕はノルマこそ課せられた経験はありませんが、大っ嫌いな数字に関わる管理部門から新入社員の生活が始まりました。船会社の特性かも知れませんが、どこかの組事務所かと見間違えるような、怒声が飛び交う職場に、全く数字に興味のない若者が経理や給与計算業務に放り込まれるわけですから、上手くいくはずがありません。おまけに団体行動が苦手で、お酒の席でも平気でウイスキーを頼むようなキャラクターでしたので、毎日のように説教三昧で、個性なんてものは入社早々、すぐにへし折られました。グループ会社の総務経理を3年やった後、今度は本体の経理に異動になり、そこから日付が変わって残業する日々が続きます。タクシーで霞ヶ関から高速に乗って帰るわけですが、霞ヶ関の官庁街は煌々と明かりがついているんですね。働き方改革が言われて久しいですが、彼らに一番、働き方を改善してもらわないと、浮かばれないのではと思いました。でも、僕自身もこんな働き方を強いられて健康な筈はないわけです。休みの日はひたすら寝ているだけで、当時、付き合っていた彼女とも時間を割く余裕も無く、程なくして別れ、仕事のストレスから大人の喘息を発症しました。当時、最年少の僕は先輩や上司から仕事をこれでもかとふられ、「何で俺だけがやらなあかんねん」という気持ちをぐっと押さえ、他社でも使える人材になることだけを考えて仕事に向かいました。ここまで来ると、思考能力がゼロで会社色に容赦無く染められていきます。ただ、就職氷河期の僕らは希望の仕事につけなかった反動もあり、どこか冷静でいつでも転職できるよう準備を整えた気もします。これを機に、僕は夜な夜な9時ごろに事務所にかかってくる同じ部署の先輩や上司からの飲みの誘いも断り、知識の吸収に努めました。そして、追い討ちをかけるように僕が勝手に異動を希望しているという話しが出回り、それが現実となります。急な理不尽な異動に問い詰めても、「お前が希望してるからそうなった」としか説明がありませんでした。労基署に相談するも組織内で話し合えの一点張りで、異動先で話し合いを重ね出た答えが、元の部署に戻そうかという内容でした。こんな職場に未来はないと思っていた矢先、会社が無くなるという話しが出回り、僕は機は熟したと判断しました。転職活動に備えるため、転職活動をサポートする会社に赴きました。仕事レベルの精査が行われた結果、管理職相当のスキルがあると診断されましたが、平凡な人生で良いから、今度は潰れない会社をと思い、最終的に学校に務めることになりました。組織がおかしな方向に向かう予兆はこういうところにあったのかなと今更ながら思います。転職で一件落着といかないのが僕の人生なんですね。ここから、更に事態は悪化の途を辿り、現在に至っていきます。暗いネガティブな話しがこの後も続きますが、どうぞご容赦を!

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