先生って崇高な響きがありますね。まだまだ、日本の社会では、社会的地位やステータス、お金の面でも優位性は揺るぎないと僕は感じています。でも、人間的な魅力や人格はどうかというと、必ずしもみんなが素晴らしいと言えないのは、いつの時代も変わらないと思います。

先生と呼ばれる職業は沢山ありますが、医師をはじめ教員に至るまで、一般人を正しい方向へ導いてくれれば良いのですが、論理的に積み上げきれない事象に対しては、滅法弱さを露呈する人種だなと思うときがあります。

一方で、会社員や公務員などの方々は、論理も大事だけど、前に進めなきゃという感覚が強く、先生と呼ばれる方々とは究極のところ、折り合わないのではないかと考えます。理論と実践の違いでしょうか。コロナ対策で政治家と学者で感覚が異なる場面を僕たちはすでに身近に見てきていますしね。

インターネットがここまで普及してきますと、学校の意義は社会性を養うこと以外、無意味な機関に感じてきます。就職だって、学歴なんか関係なく、YouTubeで稼ぐ人も数多くいます。ただ、共通して言えるのは、継続しなければ、成功はおぼつかないということです。そこに先生が介在する余地はありませんし、学校は義務で行くとしても、帰ってからは、しっかり没頭できる時間を作ることでお金を稼ぐ、こんな時代が今現在の姿では無いでしょうか。

文部科学省は、崇高な入試改革を諦め、各大学に改革を委ね、そこに補助金をつけるという丸投げ政策をまたやろうとしています。この国の文教政策が揺らぐ中で、東大生なりが、アメリカに留学やアメリカで仕事をするということがそのことを物語っているのではないかと思います。僕は、勉強の重要性は否定しませんが、画一的な高等教育では、不透明な時代を生き抜くことは難しいのではと思います。僕は、とっくにおじさんですが、経理業務を通算20年間やってきたこと、継続性ですかね、これはコロナ禍の転職市場でも引き合いをいただけるのはありがたいというか、運の良いキャリア形成がなされたと思うことがあります。

次回は、対面型のオープンキャンパスについてお伝えします。

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