これまで、様々な場面で仕事のことや、それに付随する人間関係、そしてどう生きていくのがハッピーな人生につながるのかを断片的に考えてきました。それらは、日本社会で生きていく上で、ある種、考えても仕方のないようなテーマでもあるように思えますが、また一方で、そう考えさす根源が何かを掴めば、僕たちの息苦しい生き方も改善され、光が差し込むのではないかと考えます。閉塞感漂う組織、その先の国家観に照らし合わせると、「国家の礎は教育」と言われるように、「教育」について掘り下げて考えて見るのが、解を導くきっけになるのではないかと考えました。「教育」という壮大なテーマを語るのには、力不足感が否めませんが、何となく腹に収まるお話しができればと思います。

「オギャー」と産まれてから、幼稚園を皮切りに教育を受けた人もいれば、幼稚園なんて行きたくないということでボイコットして、小学校からスタートした強者の方もいるかも知れません。ニートをめぐる話しも世の中ではありますが、自己主張を持って、あえて学校や勤めに行かないという選択肢を取られている方もおり、キレイゴトの話しを抜きにすれば、今は僕らの時代とは変わり個々の時代に移り変わってきているのではないでしょうか。あえて、その判断を自ら下した点に注目すれば、大衆に流されず、本質を見抜く力を持っているのではないかと思い、頼もしいと思えるところもあります。つまり、「学校に行くのは常識でしょう」「会社に勤めるのは常識でしょう」と言った、数々の「常識」の渦に巻き込まれず、「我が道をゆく」姿勢はこの時代、大切ではないかと思います。ただ、全てに言えますが、そこに自己中心的な考えがあってはなりません。多くの人は、長く「常識」を疑わずに今日まで来ているのが現状ではないかと思います。僕は、以前書きましたが、「大学を卒業して会社に入れば輝かしい未来のレールが敷かれているもの」と考えていました。しかし、それは僕にとっては、或いは多くの人にとっても、その後のサラリーマン生活を良くしたいという想いから、幾多の競争に巻き込まれたりすることもあったと思いますし、意図しない形で異動や会社が消滅した経験を持つ人もいらっしゃるとと思います。振り返りますと、無駄な時間と体力を使い、椅子取りゲームに興じていたなあと思い起こすこともあります。「その結果がこれかあ」と思うと、「幸せを感じている」とは程遠い状況が現在の姿です。多分、「常識」と信じて疑わなかった先生や親の言動について、例えば意図しない環境に置かれて初めて「洗脳」が解けた瞬間であり、気づいた時点では、年齢もいき、後半の人生をただいたずらに生きていくしか残されていない感覚に陥ります。「虚しさ」だけが残されている状態ではないないでしょうか。

「なぜ、高校や大学に行かなければいけないのか」、僕は親にこう質問したことがありますが、明確な答えは返って来ませんでした。やたら、「社会に出てから」とか「学歴」とか、上っ面の話しに終始してしまうわけです。僕は、出来の悪い人間でしたから、学校の成績も至って普通で平均的でした。小学校や中学校の三者面談で先生から、「あなたは、オール3の平均的な生徒で良かった、大人になったら、そういう平均的な人間が必要とされるから」「特定の分野だけ5とか優れていても仕方がない」ということを話された時は少し驚きましたが、先生が行っていることに何お疑問も持ち得ませんでした。つまり、個性的な人間ではなく、目立たず、普通になんでも平均的にできる機械的な人間を養成するのが、学校の役目だったのではないかと今となっては感じます。特に私のように多感な時期を公立の学校で学んだ人間からしてみると、どこから切っても同じ模様が出てくる「金太郎飴」的な人間が評価される時代だったのではと感じます。自分を押し殺し、我慢が出来てとなると、よく例えに出される、体育会系の人間が受け入れられる典型と言われますが、勿論、その理屈も一部では合っていますが、僕は彼らと仕事をしていて、寧ろそのことについて否定的に見ています。同僚で全国レベルの有名な選手であってもメンタルをやられる人間を見てきましたし、別の人間は早々に転職をしていくものもいました。むしろ、彼らは監督なり、上司の命令についてよく自分の頭で考え分析する能力があると思います。一流の選手になればなるほど、この傾向は強いのではないでしょうか。そうでないと、監督やコーチの指示だけで全国レベルまで到達はできないと思います。例えばサッカーは野球と違い、その場その場の状況に応じて選手が試合を組み立てていく必要があります。そうは言っても、僕が社会人になった頃は、会社色に染めやすい人間を体育会系を問わず、選別の基準にしていたような気もします。あながち、先生方が仰っていた社会の「常識」の話しも的を外しているのではないということは補足しておきたいと思います。但し、時代は変わりました。戦後のような、「家内施制手工業に従事する労働者」の準備機関としての「学校」の位置づけはとうに終焉を迎えているのです。工場で働くなら、均一した製品の品質が求められるので、文鎮型組織で工場長の号令で一斉に動けば良かったのですが、オートメーション化で、工場自体に変化が生じています。いずれにせよ、「国家の礎は教育である」観点の一部に、学校は均一労働者の生産を目的に開かれた教育が行われてきたことは事実のように思えます。「国家」「企業」と「学校」はお気づきの通り、鉄壁の関係で結ばれていることは言うまでもありません。本来であれば、今年度の大学入試から、入試制度が大きく変わる予定でしたが、そのコンセプトのひとつに「脱偏差値」を国は掲げていました。連鎖の話しのついでですが、企業が、偏差値の高い大学生を採りたいとする姿勢をやめない限り、大学も変われません。国に至っては、霞ヶ関の上級官僚は、東大法学部卒と言うのが暗黙の常識でした。今は東大生の官僚離れが進んでいますが、話しを学校に戻すと、当然、国家を率いるエリートを養成することも命題として出てきます。旧制高校でのエリート教育につながるようなリベラルアーツの教育が注目されている事実も見落とせません。世界を見てもエリート教育の行き着く先は国家のためと言うナショナリズムの関係と深く連動するのではないでしょうか。身近な例では共産圏の国々を見ていると、まさにその典型と思われます。次回も続きをお話ししたいと思います。

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