コロナ禍の中、緊急事態宣言が一斉に解除され、感染者数も第6波の前の静けさなのか、低水準を保っています。一部では、在宅勤務を推し進めた結果、Zoomが浸透し、衣類は買い控えが進んだようです。服飾販売に携わる人たちにとっては、由々しきことで、例年になく爆発的なセールを実施した結果、給与水準も下降線を辿っている人もいることでしょう。ネットで買えば良いやという人も、パンツ類は、試着してからでないと、ウエストや裾の長さなども不安が残り、実店舗での需要は当然なくなることはないと思います。では、学校はどうかというと、研究者たる大学教員は、主たる業務が研究で従たる仕事が授業という観点でいくと、コロナ禍は自宅から発信できるオンライン授業は、移動の時間が削減され、概ね好評だったと思います。一方、学生は、学年が上るにつれ、好意的に受け止められ、下級学年は、そのまた逆ということも納得がいきます。通信教育と変わらない状態になっても、学生に教授できることは証明されました。対面でのライブ感が有効かどうかは、学生の学年によるように、その時々の価値観により変わります。街もショッピングモールも学校もお客さんや人がいて、はじめて雰囲気や、らしさを感じられることは、言わずもがなではありますが、ネットを通じて、もう一段階、リアルに買い物を楽しめたり、授業を受けれたりすると、ネットと対面型の境界は究極まで削ぎ落とされ、シンリアルの融合がはかれるのではと感じます。ネットの世界はまだまだ、成長の余地があり、次の改善ができる優良な市場です。SF映画の世界とは言わないまでも、更にリアルとの境界が取り払われたとき、僕たちの価値観はどうなっているでしょうか。大学の授業自体が今やパワーポイントで進められることが主流と考えれば、黒板にチョークで書く時代は過去の産物になっていくのかも知れません。

昭和の歌は、廃れず、今でも外で聴くことがあります。僕が小学生に流行った曲が子供たちに受け継がれていることもその典型例です。モーツアルトなどのクラシックも、当時より、未来に羽ばたいたと考えれば、不思議なことではありません。後世に残る曲とそうでない曲の違いはどこにあるのでしょうか。境界線はそもそも存在するのでしょうか。便宜的に僕らが仕分けしてジャンル分けしているだけであって、もっとシンプルで良いものは残るということなのでしょうか。これは、本の世界でも同じですね。つまり、時代がどう変わろうとも、変わらず受け継がれ、支持されるものは、必ずどんな分野にもあるのだということを理解すると、僕らが日々格闘している仕事にも意味があると思えてきます。もし、言えるとしたら、これからの社会は勝ち負けでは計れない個々の創造力が意味を持つのではないかと思えます。ボーダレスの社会では、日本で受け入れられなくても、他の国では、受け入れられることもあるように、それ自体が容易に峻別されるのではと感じます。発信力は、大きな成功と挫折の二面性を持ちますが、それを恐れていると、イノベーションは起きませんし、価値の創造を絶やすことになり、勿体ないです。僕は、とっくにおじさんですが、仕事の合間にこうやって、所感めいたことを書いているのも、頭の整理に繋げて、新しい発想に辿り着く、ヒントを得ているところも一部にはあるような気が最近してきています。

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